日本人の思考回路

日本人の思考回路

今回から日々折々で感じた雑感を日記風に書かせて頂くことにします。

先ほどまでミュンヘンの知り合いとSkypeで話をした。こちらは早朝だが、あちらは夕食後のリラックスタイムのため、少々酒も入っていたようで思わぬ長話しになってしまった。

彼の話では、現地の雑誌に「2020大会に東京を選んだIOCは実に幸運な選択をした」といった記事を著名な教授が寄稿したという。要は、渡航制限でインバウンド需要が見込めない上、国民もテレビでしか接することのできない大会を受け入れた日本は、尊敬には値するが不気味さすら感じさせる国だといった論評だったのようだ。不気味な例として武士のハラキリ(切腹)を挙げており、対面を守るためには自らの死さえ厭わない文化が今なお色濃く残っているようだとも指摘していたそうな。彼は、その教授の指摘のように、パンデミックの最中にオリパラという大規模大会を許容した日本は、多くの欧州人にとって珍奇に映っており、我々だったら自国にとって何の見返りもないからと確実に尻込みをしただろうと言っていた。

この話を聞いて、外国人の目に映る日本について大いに考えさせられた。こう言われると、次回開催国のパリが「ありがとう日本」と横断幕を掲げたのも複雑な思いを感じてしまう。
誰にどう思われるかを気にしても仕方のないことで、まして今更オリパラ開催を批判する意図は毛頭ないが、国内にいては気づかない自分の姿を外国人という鏡を通して見ることで、いろいろ気づかされることも多い。

特に、切腹まで例に出していたことは実に衝撃的だった。
私が思うに、切腹の習慣は内と外を明瞭に分けたがる日本人の思考形態がもたらした(あだ)(ばな)のように感じている。
単に家の周囲を高い塀で囲うといった表面的なことだけでなく、内面(うちづら)外面そとづら)、弊社と他社、仲間とよそ者などなど、内と外を分ける言葉は実に多彩である。本音と建て前などもその系列に属する表現かもしれない。
内なる内面を律することで外なるものへの体面を保つという思考形態は、日本人のある種の美徳といえるのかも知れない。自分に厳しく他者に優しい人は、多くの場合尊敬の対象になる。

話は異なるが、以前のブログでも紹介した10年以上前にデンマークの個人情報保護委員会で言われた「日本人は自分の生命よりもプライバシーを大事にするのか?」という言葉が蘇る。
既往症や投薬履歴など自分の健康に関わる情報は、プライバシー保護の観点から例え医療機関どうしてあっても容易に交換されることはない。院内でも診療科によっては共有されないこともある。こうした説明に対して、思わず先方が発した言葉だった。

では、我々日本人は、内と外をどのように区別しているのだろうか?そもそも、”外なるもの”とはどのいったものなのだろうか?

この境界線には自らのアイデンティティが強く影響しているが、一括りにアイデンティティと言っても国民性によって大きく異なる。私が思うに、日本人のアイデンティティは極端に狭い活動範囲である組織によって規定されているように感じている。
多くの社会人は組織によって再教育され、属する組織に忠実であることが求められる。今ではあまり言われることはなくなった”滅私奉公”という言葉は、昭和の高度成長期には美徳とされていた。組織といっても漠然としているが、個人にとっては属する上司の意向そのものが組織を代弁しており、上司の命令は絶対であると教えられた。
今の社会のリーダーの多くは、こうした高度成長期の教育を受けた世代であり、上命下達の慣習は色濃く残っている。それゆえ、無理難題を言われても、個人の価値観とは相容れない命令であっても、唯唯諾諾と応じざるを得ない。
この結果生じた顕著な悲劇は、関西財務省官僚の自殺だった。外なる組織から命令(例えそれが上層部の一部の意向だったとしても)には従わざるを得ず、その結果、内なる自分を切腹に追い込んでしまった典型例だったのではないだろうか。

もちろん、絶対的存在である外なるものは、一般社員ならその上司、管理職なら役員といった具合に置かれた立場によって異なる。これが国のリーダーであれば、海外の主要な国の意向であり、戦後の日本ではアメリカの意向こそが絶対的存在なのだろう。
こう考えると、冒頭のドイツ教授が「2020大会に東京を選んだIOCは実に幸運な選択をした」といった言葉に少々皮肉なニュアンスを感じてしまうのは私の偏見だろうか。

先日、友人から太平洋戦争末期に数多くの一般市民を死傷させ、日本中を焼け野原にしたアメリカによる焼夷弾による無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイ将軍に、戦後わが国は勲章を授けたという話を聞いて驚愕した。Wikepediaで調べたら、確かに1964年(期しくも前回の東京オリンピックの年)に勲一等旭日大綬章を授けている(もっとも、勲章授与は天皇陛下の専権事項だが、さすがに昭和天皇は辞退し航空幕僚長が授与したようだが)。
これらを考えると、国のリーダーにとっての外なるものはアメリカを始めとした主要国であり、場合によっては内なる国民よりも優先される絶対的存在であるとの認識があるのではないだろうか、と物騒極りない妄想まで抱いてしまう。

まさかとは思うが、体面を保つためには自らの死さえ厭わない”ハラキリ文化”までも引きずっていないであろうことを祈るばかりである。


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