幸福な社会とは何か?

幸福な社会とは何か?

 今回は、<幸福な社会とは何か?>という少々哲学的なテーマについて考えてみたいと思います。“デジタル社会の展望”という極めてファッショナブルなテーマを扱う当ブログで“幸福とは?”といった根源的なテーマを選んだ理由は、これからの社会というものの目的をしっかり見据えておく必要があると考えたからです。言い換えれば、“デジタル社会”自体が、これから築かれる社会のための手段に他ならないと思うのです。その意味では、真っ先に取り上げるべきテーマだったのかもしれません。

 今回は、その初回として“幸福度とは?”について考えてみたいと思います。

幸福度を測る指標とは?

 私が学生時代を過ごした1970年代は高度成長期の真っただ中にあり、経済的な成長こそが幸福をもたらす唯一無二の指標だとされていました。 その一方で、高度成長がもたらした様々なひずみも社会問題として取り上げられつつあった時代でした。四大公害病1に代表される公害問題が全国に波及し、東京などの大都市の空はスモッグで灰色に覆われ、河川の多くは魚も住めず黒く濁って悪臭を放っていました。

 それでも経済の成長神話は決して揺らぐことはなく、『モーレツ』という流行語が象徴するように、経済発展=所得の拡大こそが唯一の幸福につながる途といった共通の価値観で当時のわが国の社会は構成されていたのです。 もちろんこうした時代でも、“経済成長+所得拡大=幸福の実現“という考え方に異を唱える学者もいました。法政大学の力石定一教授などはその代表格で、当時の経済指標であったGNP(Gross National Products)に対し、彼はNNW(Net National Welfare)を指標にすべきと主張しましたが、産官学全てから一顧だにされなかったばかりか、社会問題化していた学生運動の首謀者とまで非難された2ことを覚えています。東大の同期生で共に学生運動に身を挺した渡邊恒雄氏が率いる読売系のマスコミまでが「力石教授は今の近代社会を土とはだしの原始時代に戻そうとしている」などといった極端なキャンペーンを行っていた記憶もあります。

 この当時は、米国の弁護士ラルフ・ネーダー氏による消費者保護運動や、100年後には地球の成長は限界に達し食糧や資源などが枯渇すると警告したローマクラブ『成長の限界』など様々な言論も注目はされたものの、経済成長優先の考え方が揺らぐことはありませんでした。郊外の箱型の無機的な団地に住み、殺人的なラッシュアワーに揺られて出勤する日々を送りながら、『一億総中流生活』を目指し必死に足掻いていた時代だったと思います。

 80年代に入るとわが国の経済は過熱し、株と不動産の価値が異常に上昇する“バブル経済”が訪れますが、今から振り返ると“バブル経済”こそが日本の成長神話に冷水を浴びせるきっかけだったのではと思えます。米国の社会学者エズラ・ヴォーゲルが“Japan as No.1”と持ち上げても、豊かさがピークに達した喜びや幸福感を感じた人は少なかったのではないでしょうか。金銭だけでは満たされない感情のはけ口を、使う予定もない土地や建物、一軒の家が持てるほどの高額なゴルフ会員権や金融商品などに求め、それでの飽き足らずジュリアナ東京などのディスコで大騒ぎするなど、今から思えば奇行としか見えない衝動に人々を駆り立てたのも、満たされない感情が招いた結果なのかもしれません。すなわち、“幸福な生活”という目的を得るための手段(戦略目標)であるはずの“経済成長(=所得拡大)”ばかりが独り歩きした結果、それがある程度満たされた時点で、ある種の虚無的な感情に陥ったのではないでしょうか。

 “経済成長(=所得拡大)”が、戦後の高度成長を支えた戦略目標であったことは事実です。その成果が顕在化したこの時代だったからこそ、新たな戦略目標を設定すべきだったのでしょう。例えば、NNWで言われたような所得格差の解消策や高度成長で生じたひずみの解消、次の社会に向けた革新的な研究開発などに真剣に向き合っていれば、今の社会はかなり違ったものになっていたのではないだろうかと想像します。しかし、残念なことに歴史にはIFはあり得ず、やがてバブルは崩壊しました。

 “失われた20年“が30年になろうとする今日に至っても、一向に新たな戦略目標は現れてきません。それどころか、いまだに政府は「GDP600兆円の実現」などといった目標を掲げる始末で、過去の” 経済成長+所得拡大=幸福の実現“といった考え方に縛られたままのようです。社会学的には、こうした思考停止状態を”成功の奴隷“と呼んでいます。奴隷状態から逃れる方法はただ一つ、真の目的である幸福の指標から見直すことだと思うのです。

国連“World Happiness Report”で示されたわが国の幸福度

 では、世界は幸福の指標についてどのように考えているのでしょうか。

 国連のSDSN(Sustainable Development Solutions Network=持続可能な開発ソリューション・ネットワーク)では、『World Happiness Report』と題する報告書を2012年以降毎年公開しています。昨年(2020年3月20日)公表された『World Happiness Report 2020』から、世界が考える幸福度とは何か? 世界はわが国をどのように評価しているか?についてまずは考えたいと思います3

 この調査は、①一人当たりのGDP、②社会的支援(Social Support)、③健康寿命(Healthy life expectancy)、④人生選択の自由度(Freedom to make life choices)、⑤社会の寛容性(Generosity)、⑥社会の公正性(Perceptions of corruption)の6つの指標から国の成熟度と国民の主観的な意識について考察しています。 つまり、“ポジティブ感情”と“ネガティブ感情“の間を11件法で区分4し、上記6つの指標における±の社会感情を数値化しています。

 つまり、上図のように「満足している」から「不満足である」までの11区分のなかで自分自身はどこに位置しているかを主観的に答えてもらい、得られた回答を回帰分析したものです。

 その結果をチャート図で表現すると、下図のような傾向が見られます。

  • “①一人当たりのGDP”“③健康寿命”が社会感情に及ぼす影響はほぼない
  • “②社会的支援”“④人生選択の自由度”はポジティブ感情・ネガティブ感情がともに顕著に表れる
  • “⑤社会の寛容性”はポジティブ感情が顕著に表れる
  • “⑥社会の公正性”はネガティブ感情が顕著に表れる

 さて、こうして作られた幸福度ランクで、わが国はそのように評価されているでしょうか。結果は、156カ国中62位5でした。G7国だけで見ると、わが国は大きく水をあけられた最下位となっており、日本の前後にはジャマイカ・韓国・ペルー・サルビアなどがランキングされています。

 また、わが国のランキングは、2012年以降年々下降傾向にあるようです。

 では、わが国の評価が低い要因はどこになるのでしょうか。その要因を探るために、上位10カ国の評価と比較してみました。すると “⑤社会の寛容性”“⑥社会の公正性”において顕著な差異がみられます。

 ⑤社会の寛容性(Generosity)とは、慈善団体への寄付のGDPにおける割合を指標にしており、「他者に貢献することによって幸福な感情(ポジティブ感情)が醸成される」といった考え方に基づいています。日常的に寄付という習慣が希薄なことが災いしたのか、わが国は上記スケールには表示できないほど小さな値として評価されています。
 また、 “⑥社会の公正性”とは政府の透明性を表す指標で、政府や企業における汚職実態が指標になっています。「汚職が政府や企業に蔓延しているか?」もしくは「ビジネス上で腐敗に対する認識が共有されているか」という点が評価のポイントです。この点でも、わが国は上位10カ国や、31位にランクされているシンガポールなどの国に大きく水をあけられています。

 すなわち、国連SDSNでは、わが国は幸福度の点で先進国の水準には達していないということになります。

英国CAF”World Giving Index”で示されたわが国の幸福度

 英国のCAFというチャリティー機関(CAF=Charities Aid Foundation)では、2009年から毎年世界の国々を対象に”World Giving Index”(世界人助け指数)“という調査を行っています。この調査は、過去1か月間に以下のいずれかを行ったかをインタビューにより聴取した結果を収集・分析したものです。

 CAFでは、過去10年間(2009年~2018年)の人助けトレンド平均値を2019年10月に公表しましたが、それによればわが国は125カ国中107位と、ワースト20カ国にランクされています。

 上表のわが国の評価を細かく見ると、以下のような結果となっていました。

 ボランティア活動については、1995年の阪神淡路大震災などの災害を契機に活発化したことなどから比較的高く評価されています。また、寄附行為への評価もほぼ中位にランキングされています。これに対して、日常生活での「見知らぬ人、または助けを必要としている見知らぬ誰かを助けたか?」では、残念なことに世界最下位となっています。

 さて、こうしたCAFが提起する『世界人助け指数』には、フランスの哲学者アラン(Alain:本名はエミール=オーギュスト・シャルティエ)の思想が反映されていると感じています。アランの『幸福論』という著書では、「幸福は徳である。それゆえ自らが幸福になることが社会にとっても良いことである」といった記載があります。また、「人は誰もが幸福になることができるし、そうならねばならない。しかし、幸福になることは決して簡単なことではない」とも言っています。アランは、幸福感は徳を積む(社会に貢献する)ことで得ることができ、徳を積もうとする人(=幸福になりたい人)が多いほど社会はうまく発展するという意味だと思います。それゆえ、CAFが規定した3つの尺度は、幸福度を測る尺度でもあると思うのです。

 こうした考え方は、国連SDSNの幸福度評価にも共通しており、社会の寛容性への多寡が幸福度ランキングに大きな影響を与えている理由もまさにここにあると思うのです。

2つの幸福度指標が示すわが国への示唆

 以上2つの評価レポートが投げかけるわが国への示唆について考えたいと思います。

 CAFでは、社会の寛容性(Generosity)に慈善団体への寄付のGDPにおける割合を指標にしています。少々古いデータですが、内閣府『NPOホームページ』では2007年と2008年における寄付金の内訳が米英の比較で公表されています。

 一見して明らかなように、米英では個人による寄付が圧倒的に多いのに比べ、わが国では法人による寄付が大勢を占めています。法人による寄付が多い理由についての分析は書かれていないので推測に頼るほかありませんが、おそらく寄付金に伴う優遇措置(所得控除や税額控除)といった経済的なねらいもかなり含まれているのではないでしょうか。もしそうだとすれば、国連が定義した“寛容性”というカテゴリーにそのまま当てはめるのは少々無理があるように思います。

 「寄付行為は社会の寛容性を示す単なる指標の一つに過ぎない」という意見もあろうかと思いますが、<人民が主権を持ち、自らの手で自らのために政治を行う>という大原則を持つ民主主義国家において個人の行為は社会にとって極めて重い影響を与えます。CAFが指標として掲げた3つの設問もこうした考え方のもとで設定されているようです。

 こうした観点から見ると、わが国の価値観は組織に偏重しているように思えてなりません。言い換えれば、社会は、政治や行政、もしくは自分の属する企業などの組織に委ね、個人は自分の生活だけ考えておればよいといった考え方が根底にあるように思えるのです。アランの言葉を借りると「不幸や不満を感じることは実に容易い。なぜならただじっと座っていればいいのだから。自分を楽しませてくれるのを待っている王子のように」。
 つまり、我々国民は、組織がより良い社会にしてくれることを座って待っている王子であるかのように。それゆえ、社会や周囲への不幸や不満がネガティブな感情ばかりを想起し、積もり積もった怒りのはけ口を自分より弱い対象にぶつけたり、陰で政治や組織などを呪ったりしてしまう・・・。こうした不幸の悪循環の延長線上には、決して幸福な社会(=幸福な人生)などは訪れようがありません。

 以上紹介した2つの調査レポートには、そうした点についての強烈な示唆が含まれているような気がしています。

 今回のブログはかなり散文的な内容になりましたが、次回以降は“幸福な社会”を目標としたデジタル社会のあるべき姿について、様々な論評や客観的なデータをもとに具体的に考えていきたいと思います。


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