マネーとは?

マネーとは?

MMT論者の主張

少し前にFaceBookにMMT(Modern Money Theory)についての所感を書いたことがあります。

MMT理論のバイブルとも言われているL.ランダル・レイ教授の『MMT-現代貨幣論入門』という本を読んだ感想ですが、2回ばかり読んでもこの理論は私の頭に入ってきませんでした。そもそも、ここで論じられているマネーという言葉の表す意味への違和感がどうしても拭えませんでした。レイ教授の言われるマネーとは財政債務の裏返しで、財政上の債務が増えることは国民(納税者)の債権が増えることを意味するため、財政赤字を減らす努力をすれば民間の黒字が減少することになり、反って景気を大きく落ち込ませてしまうというお考えのようで、極端に言えば異次元の金融緩和こそが経済底上げの特効薬なので、財政破綻の恐れてはならないと主張されておられるようにも感じます。

日本でMMT理論を継承しておられる三橋貴明氏も「自国建ての通貨をいくら市場に出しても(つまり、いくら国債を買い入れても)財政破綻はあり得ないし、コントロールさえしっかりなされていればインフラにも陥ることはない。その証拠にインフラにはなっていないではないか」とさかんに主張されておられます。

マネーとは何か?

では、そもそもマネーとは何でしょうか?

私の理解では、マネーとはモノの価値を象徴的に表すための道具(もしくは機能)であると考えています。昔の銀貨や金貨のように貴金属として独自の価値があれば別ですが、一片の紙に過ぎない紙幣自体には収集家にとっての骨董的な価値以外にはないと思っています。デジタル通貨に至れば、現物すら存在しないただのデータでしかないと思うのです。いうなれば、太陽が照らし出す明るさによってその存在が知れる月のようなものだと考えています。だから、時代背景や人の好みなどによって価値は変化します。さしずめインフレは強い真昼の陽光に光輝いて見える状態で、その反対にデフレは薄暮の薄い光に鈍く輝いている状態と言えるのではないでしょうか。その延長で、市場に照らし出すモノの価値以上にマネーという光が集中的に降り注ぐと、モノは必要以上に熱せられ強い光を発し、やがて沸点を超えて煙を上げます。太陽にかざした虫眼鏡を紙に当てると煙が出てやがて燃え上がるのと同じことです。こうした状態が経済上で起これば、ハイパーインフレという状態に陥ったことになります。

このように、マネーとモノの価値は相互に適切な関係の上で成り立っており、モノの価値を決めるのはマネーではなく需要と供給のバランス、つまり市場原理であるといえます。マネーとは、決められたモノの価値と等価で交換する(取引する)ための道具に過ぎないと思うのです。だから、モノの価値を超えて必要以上にマネーが溢れるとマネーの価値も下落し、それがインフレ状態への引き金になるのです。

以上の理屈は古典的経済学の教科書にも書かれているごく当たり前の経済原理ですが、最近のモダン経済論者たちには、何をいまさら古いことを言っているんだと感じられると思います。ではそうした彼らに「では、マネーの価値って何によって決まるのですか?」と問いかけたい衝動に駆られます。

変動相場制で変わったマネーの価値基準

かつてマネーの価値は、交換できる金や銀の含有量によって決められていました。古代通貨に金貨や銀貨が多いのは、マネーそれ自体を希少価値のある金銀で証明するためでした。やがて、貨幣の代替物として紙幣が登場しますが、これも金と兌換できることを前提に価値が決められていました。こうした制度は“金本位制”と呼ばれ、第二次大戦後は戦火で疲弊した各国を尻目に、世界一の金保有量を持っていた米国ドルのみに金との兌換が認められ、各国の通貨にはドルとの交換レートが決められたことで間接的な金本位制に移行しました。しかし、日本や西ドイツなどが次第に復興を遂げたことに加え、泥沼化したベトナム戦争によって米国自身が疲弊し、1971年にドルと金の兌換を一時的に停止するという“ドルショック”が生じました(この間のいきさつは、前後の想像も加えて『マネーウイルス』という短編小説に描きました)。

ドルが金との兌換を停止し変動相場制に移行したことで、マネーそのものの価値が見えにくくなったと考えています。なぜなら、金の保有量とは関係なく各国の中央銀行はそれぞれの裁量でマネーを供給することができるようになったからです。もちろんかつての藩札のように無尽蔵に刷ってしまえばマネーの価値は下落します。ただし、マネーを乱発しても自国内(もしくは一定のエリア内)だけで消化できれは価値の上で問題にはなりませんが、いったん範囲を超えたら同じ価値では通用できなくなります。つまり、外国為替相場がマネー流通の安全弁ともいえる役割を果たしていると考えられます。今の世界で自国内だけで経済が完結できる可能性はほぼ皆無のため、為替相場の果たす役割は極めて大きいと言えます。MMT理論を主張する学者たちは、自国通貨の範囲であれば通貨はいくら刷っても破綻には至らないと主張しますが、この考え方は外国為替市場が均衡弁になるという前提の上でこそ成り立つもので、現実にはここ数年の金融緩和によって為替相場すら誘導可能なことが実証されました。市場経済の安定化には政府の介入が必須と説いたケインズが最も重視したのは利子の存在でしたが、金利水準も同様に政府や日銀のさじ加減によって大きく左右することが可能であることが分かってきたのです。そのため、各国はこぞって金融緩和に踏み込み、金利を限りなくゼロに近づけるため通貨の供給量を増やそうとしています。その結果、わが国の国債発行残高は国と地方を合わせて1100兆円という膨大な額に上っています。

カナダ出身の20世紀を代表する経済学者の一人であるガルブレイスは、自著の“MONEY”のなかで「祈祷師のような普通の人間にはない洞察力を持つ、神秘的なものと特権的な結びつきを持つことで商売が成り立つ」と皮肉を込めて述べていますが、まさに現代のマネーは神秘な存在のようにも感じられます。

なぜインフレに陥らないのか?

そもそもマネーは交換できるモノの価値によってそれ自体の価値が決まっていく相対的な存在であると前に書きましたが、市場に必要以上にマネーが溢れればインフレになるは至極当然のことです。ところが、三橋氏などのMMT信奉者には「これこそがMMT理論の正しさを証明している」と見えているようです。三橋氏は「日銀が国債を大量に買い取ってもインフレ率は下がり続けゼロになるばかりか逆にデフレになったではないか」と述べておられるようですが、これが極めて不自然で異常な事態であるとはお気づきになっていないようです。つまり、本来は実際の購買行為のための代替手段であるはずのマネーが、勝手に別の世界で独自に増殖を続けているということで異常事態と申したのです。仮に、市場に供給されたマネーが『モノの価値の代弁者』としての役割を本当に果たしていれば、供給量の均衡が崩れてとっくの昔にインフレになっていたはずです。言い換えれば、マネーが本来の居場所であるはずの市場に回っていかず、倉庫のような待機場にうず高く積みあがっているということです。待機場には、投資ファンドの類から証券市場のような自己増殖ができる居場所もあり、かつてケインズが利子論で論じたような生産工場や機械などへの投資に振り向けなくとも増殖可能な居心地の良い環境が提供されているということです。旺盛な投資により需要と共有が喚起され経済が発展すると考えたケインズの考えは、マネー自体がモノと遊離した独自の価値を持つとされる新自由主義(金融資本主義)理論の前に潰え去ったといっても過言ではないように思います。

このように考えると、大胆な金融緩和の結果、トリクルダウン的に経済が成長軌道に展開するというアベノミクスがいかに常識を逸した政策だったかがよく理解できます。故与謝野馨氏が、安倍内閣の金融政策を「偽札財政」と喝破した理由もここにあるように感じます。

そもそも、社会にマネーが浸透するには、上流から下流にかけて取引を通じた商流の連鎖が必要になります。ところが、マネーが財テクの具として生き続けてしまえば、需要と供給という流れが滞ればマネー流も堰き止められてしまうのが自明の理です。さらに、投資先がファンドに代表される金融商品に注目が集まれば、より多くのマネーを独占することで賭博の元手と同じく優位に立てるわけです。より大きなマネーを動かすことで大きな理が得られるという考え方に傾くのは無理ならぬことで、ピゲティが指摘した100人に満たない富裕層が世界の半分の富を持つという実態も当然の帰結ということになります。

こうして、マネーをいくら市場に配ってもインフレには陥ることはないだけでなく、その結果格差の拡大という社会問題を膨れ上がらせる結果にもなりました。今の世界を覆うコロナ禍で、世界経済が大きなダメージを被ってもそれに関わりなく金融市場が順調な理由もそこにあり、リーマンショックのような投資マネーの価値が毀損する事態が生じれば、経済のファンダメンタルに関係なく世界的不況になってしまう理由もまさにここにあると思うのです。

格差なき経済社会への処方箋とは?

では、こうした社会状況に対する処方箋はどこに求めたらいいのでしょうか?残念なことに、確実に事態を改善させる処方箋を見出すことは極めて困難ことです。

経済学には正解はないと言われるように、自然科学のような絶対的な定理は存在しません。スミス、シュンペーター、ウェーバー、マルクス、ケインズなど、経済学はこれまであまたの巨人的な学者を輩出してきましたが、普遍的な定理というものはいまだに見出されていません。その理由を私なりに推測すれば、おそらく経済というものが人間の欲求そのものに委ねられているからではないだろうかと思っています。そう考えると、世論が社会を形成するように、経済のあり方も人々の社会的価値観や行動性向によって変化するのはむしろ当然であると思えるのです。

しかし、正解がないと言って手をこまねいていては何も解決しません。ここでは、デジタル時代ならではの一つの処方箋をご紹介したいと思います。それは『取引の可視化』という方法です。すなわち、マネーは上流から下流にかけて取引を通じた商流の連鎖に伴って浸透するといった考え方が解決策の糸口になるのではと考えました。

こうした発想をかなり以前から実践している国があります。これはスウェーデンです。

経済の好不況はマネーの流通状態が大きく作用することは改めて言うまでもありませんが、カネの流通量を向上させるには効率化を推し進めることで社会活動を行う際の中間コストを極力削減し、旺盛な消費環境を整えることが重要になります。また、マネー流通のポンプ役である金融機関のファイナンス力を強化し価値を生み出す産業や企業への投資を促進することで実質経済の底上げを図ることも重要な施策です。スウェーデンでは、デジタル技術の活用を通じて社会の効率化を可能な限り徹底的に進めたとともに、マネーの流れを可能な限り可視化することで、資金が一部で滞留することで生じる格差の是正に取り組んできました。

マネー流通の可視化という目的を達成するうえで最も有効な手段はキャッシュレス化の推進です。スウェーデン政府が銀行と連携して行ってきたキャッシュレス化の具体的な内容は以下の動画にまとめましたので説明は割愛しますが、好循環な経済社会を実現することで経済を活性化するという狙いは明確に見て取れます(約9分)。

スウェーデンのキャッシュレス事情

キャッシュレス社会を実現すれば、格差がなくなり豊かで公平な社会が築けるという単純なことにはなりませんが、可視化されたマネー情報は税や社会保障など社会の様々な場面において活用することが可能であることは間違いないと思います。もちろん、プライバシーへの配慮や、活用範囲とその方法など、議論が必要な課題は数多くありますが、“顔の見えるマネー”をいかに構築し、社会全体の適正化に活かしていくかは、今後のデジタル社会に向けた重要なテーマの一つであると考えます。


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